にレビューが掲載されました。ありがとうございます。
ポルトガルに2年間滞在(実際は1年と数ヶ月)は間違っている以外は、
なんとまぁえらそうにしゃべっております。
英語にすると偉そうだなぁ俺。というかいつも偉そうか・・・
http://www.koreatimes.co.kr/www/news/art/2010/06/285_68127.html
偉そうにしゃべる。その感覚の良いところは研鑽しつつも、
あるところは改めねばならんと思いつつ、でも韓国は非常に有意義だった。
行き当たりばったりのほぼすべてがハマるという奇跡。
自身の活動というかアクションそれ自体がそのまま何かへと昇華される瞬間の連続。
言えば、パフォーマンスの記録映像が常に孕む、実演と記録の対立を、
そうした僕にとっては不毛な<対立>という構造をジャンプする方法というか、
踏み台にして全然違うところに着地する方法というか、
気持ちのよいジャンプをするための助走の仕方を会得したっぽい。
全然話しは変わるが、様々な価値観がグルグル交錯する場所での居心地の悪さを感じる。
それは多分、そこを多様性のある場所として勘違いしてしまっているからかもしれない。
最低限の「寛容」という態度を持ち得てないと「多様性」なんて機能しないし、
それぞれの共生やそれに対する真摯な批評は進んでいかない。
自身の価値観とは真逆なところにも普通に足を突っ込んでいる人でないかぎりそれは難しいのかもしれない。
宮下公園を巡る一連のアート/クリエイティブ活動やそれに対する、拒絶、拒否という態度にもそれらは現れている気がする。例えば、公園内に散見できるアート作品は、社会的/政治的な文脈をダイレクトに孕み、「公共性」などの議論を促すきっかけとして、機能する/させようとしていることは明白であるし、そうした行為自体が、広義の意味でのアートとして捉えらると思う。
けれども、問題なのは、それを見る喜びが全くない・・・何回も訪れているが、いつも思う。
なんなんだろうこの気持ち悪い感じは・・・多分、扱ってる問題の処理の仕方にユニークな部分というか、クリエイティビティを感じないというか・・・それらを見て楽しむために、様々な文脈を知ったうえで、且つ、言葉での説明を受けながら鑑賞するという行為を否が応でもしなくてはならない点において、非常に微妙なコンセプチュアルアートのようなものになってしまっている。
すなわち、鑑賞側が入り込むべき余地ー勝手な解釈を促す余地ーがあまりにも少ないからではなかろうか。いや、言葉を駆使して理解しようとすることが必要だからなのだろうか。いやいや、そもそもそうしたものこそ、いわゆる狭義の美術として語ることは不可能ではない・・・。
他方で、設置されている作品以外の活動については、積極的に広義の意味で「アートであること」、あるいは、その概念を拡張するもとして考え得る事象だと思う。
僕自身、宮下公園スクワット、その状況下で乱発するイベントも含めて、一連の活動は本当に素晴らしいと思っている。
例えば(すべてを見てはいないが・・・)、青空図書館やいくつかの上映会、セルフのカフェやパーティーなどは、そのポテンシャルやアイデアは、アート的活動であり、且つ、社会的運動としても捉えることができる。
まとめると、宮下公園に関する様々な運動のすべてが「抵抗」の意味合いを含むものではあるが、よくよく観察、分析することで個々の小さな活動が広義のアートにも社会運動にも立脚する可能性はある。微妙なのは、空間構成、物証化された作品群、そのプレゼンテーションの仕方に鑑賞側の入り込む余地が全くないことである。そして、鑑賞側も企画側のプレゼンを鵜呑みにするのではなく、そこで遭遇できる様々な事象と真摯に向き合えば意味のあるものが発見できるかもしれない。
自身の行為が、政治問題に加担してしまうことを恐れる気持ちも分からなくもないが、
何もしないことも一つの態度であり、政治的な力をもっていると考えている。
ただ、社会に、社会的運動に、参加する/しないという概念自体、跳躍するべきではなかろうか。
参加/不参加ではない、別の態度。それは、新たな生産を実践することであり、すなわち、一つの態度や実践を利用、あるいは取り込み、変容させ、別のかたちで提示する。呼応するでも否定するでもなく、利用し合うこと。そのダイナミズムの中に自身を晒していきたいと思う。
と書きなぐりしておく。